帰宅後、「まだ夕食は出来ないよ」と言われ、一度自室でリグに火を入れ(というか一日中入っているので、マウスを動かしで画面を出す)バンドをワッチ。 DXSpotにFY/F5UIIが出ているので取り敢えず20mで聞いてみると、まだ7時台(JST)なのに聞こえているしJAも呼んでいるので、クランクアップ! UPと言っているので1Kz位上で、、、。 JAから届いていないのか、QRMなのかCQ出したので、呼んだら2回ほどで返って来ました。
そう言えば、この局、昨日夕食後に出ていたので「呼ぼうかな」としたら、「皆さん今日はどうも。今からQRTでーす。明日も出てくるからよろしく。」と言われて呼ぶタイミングを逃したのでした。
コンディションが変わったようで、朝はあまり良くありませんが、夜は結構聞こえるようです。
「自傳的アマチュア無線史」3分の2ほど読みましたが、当時を懐かしく思い出させます。
そうでした。国際のメカフィルは高くて、「高校合格のお祝い」に買って貰ったのでした。 だから、この貴重品を送信だけに使うわけにもゆかず、最初からトランシーバ(学校の先輩にはトバンシーバと言われた)。 当然ロータリースイッチなんか自作できる環境ではないので、シングルバンド。 多分これが幸いしてだと思いますが、21Mhzのシングルバンドで発振することは無かったなー。 ま、入学早々、ノートにはパネルデザイン、ハリクラやコリンズの回路図を見ながら「どうする、こうする」って授業中にノートに書いていたのだから、勉強なんか出来るわけないですよね。 受験校なので定期的に一斉テストをやり、その結果を上位50人くらい張り出すのですが、350人中302-3番じゃお呼びでありません。 最初の父兄面接でお袋がこっ酷く嫌みを言われて「お宅のお子さん、何かやられているのですか?お子さんの後ろには野球部とサッカー部しかいませんよ」って。 ま、最初だから志望校は「京都大学」って書いておいたから当然ですけどね。 オモイッキシ怒られましたが、ここら辺はAEAとあんまり変わりありませんね(時代は10年程後になりますが)。 まー、成績は諦めて、最初の夏休みにはトバンシーバ(終段は6146B1本)が完成して、アンテナは12mの木製梯子に2エレのクワッド。 これで、高校3年までの間cycle20の上昇期でもありましたが、随分とDXをやる事が出来ました。 高校2年の時女の子にもてたくて、このトランシーバを親父の車で学校まで持って行ったことがありましたが、やはり、車の振動に耐えられるほどの作りにはなっておらず、到着後に少し修理が必要でしたねー秋のLPのヨーロッパ、アフリカと思ったのですが、学校の校舎の間に張ったダイポールでは、全然ダメ。
その頃(高校1年?)、初めてQSOしたJA2IXG,(CQF,BQX)の太田3兄弟がYaesuのFL/FR100を使っていたので、夏休みの補習の合間にチャリで見に行ったことがありました。 羨ましかった、、、。
鈴木さんの本には名前は知っている有名人がイッパイ出てきますが、中には実際に会ったりお世話になったりした人もいました。 野瀬さんと、Marvです。 野瀬さんはクリスマスの頃か、鎌倉のK8HVT Halの処で会いましたが、コンテストでよくやっていたので、開口一言「もっと、大きい奴かと思っていた」と言われてしまった。信号が強かったとは思いませんが、声がでかくて裾野が広かったんでしょうね。 Marvはヒューズエアクラフトの重役さんで色々な部品を調達するのに協力して貰いましたが、1979年、初めて米国に行った時に、ディズニーランドで拾って貰って1時間ほどくっちゃべってきました。 彼の会社も大会社で重役さんでしたが、私の就職先の米国東海岸大会社の事を随分心配してくれて「大丈夫か?やって行けてるか?」って気遣ってくれていました。 もう一度、新婚旅行の帰りにロスから電話して話したのが最後になってしまいました。
、
うーん、こんな事を書き始めると本になっちゃいますね。
そう言えば、この局、昨日夕食後に出ていたので「呼ぼうかな」としたら、「皆さん今日はどうも。今からQRTでーす。明日も出てくるからよろしく。」と言われて呼ぶタイミングを逃したのでした。
コンディションが変わったようで、朝はあまり良くありませんが、夜は結構聞こえるようです。
「自傳的アマチュア無線史」3分の2ほど読みましたが、当時を懐かしく思い出させます。
そうでした。国際のメカフィルは高くて、「高校合格のお祝い」に買って貰ったのでした。 だから、この貴重品を送信だけに使うわけにもゆかず、最初からトランシーバ(学校の先輩にはトバンシーバと言われた)。 当然ロータリースイッチなんか自作できる環境ではないので、シングルバンド。 多分これが幸いしてだと思いますが、21Mhzのシングルバンドで発振することは無かったなー。 ま、入学早々、ノートにはパネルデザイン、ハリクラやコリンズの回路図を見ながら「どうする、こうする」って授業中にノートに書いていたのだから、勉強なんか出来るわけないですよね。 受験校なので定期的に一斉テストをやり、その結果を上位50人くらい張り出すのですが、350人中302-3番じゃお呼びでありません。 最初の父兄面接でお袋がこっ酷く嫌みを言われて「お宅のお子さん、何かやられているのですか?お子さんの後ろには野球部とサッカー部しかいませんよ」って。 ま、最初だから志望校は「京都大学」って書いておいたから当然ですけどね。 オモイッキシ怒られましたが、ここら辺はAEAとあんまり変わりありませんね(時代は10年程後になりますが)。 まー、成績は諦めて、最初の夏休みにはトバンシーバ(終段は6146B1本)が完成して、アンテナは12mの木製梯子に2エレのクワッド。 これで、高校3年までの間cycle20の上昇期でもありましたが、随分とDXをやる事が出来ました。 高校2年の時女の子にもてたくて、このトランシーバを親父の車で学校まで持って行ったことがありましたが、やはり、車の振動に耐えられるほどの作りにはなっておらず、到着後に少し修理が必要でしたねー秋のLPのヨーロッパ、アフリカと思ったのですが、学校の校舎の間に張ったダイポールでは、全然ダメ。
その頃(高校1年?)、初めてQSOしたJA2IXG,(CQF,BQX)の太田3兄弟がYaesuのFL/FR100を使っていたので、夏休みの補習の合間にチャリで見に行ったことがありました。 羨ましかった、、、。
鈴木さんの本には名前は知っている有名人がイッパイ出てきますが、中には実際に会ったりお世話になったりした人もいました。 野瀬さんと、Marvです。 野瀬さんはクリスマスの頃か、鎌倉のK8HVT Halの処で会いましたが、コンテストでよくやっていたので、開口一言「もっと、大きい奴かと思っていた」と言われてしまった。信号が強かったとは思いませんが、声がでかくて裾野が広かったんでしょうね。 Marvはヒューズエアクラフトの重役さんで色々な部品を調達するのに協力して貰いましたが、1979年、初めて米国に行った時に、ディズニーランドで拾って貰って1時間ほどくっちゃべってきました。 彼の会社も大会社で重役さんでしたが、私の就職先の米国東海岸大会社の事を随分心配してくれて「大丈夫か?やって行けてるか?」って気遣ってくれていました。 もう一度、新婚旅行の帰りにロスから電話して話したのが最後になってしまいました。
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うーん、こんな事を書き始めると本になっちゃいますね。
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